機動戦士ガンダム F91

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 さて、未見早速ガンダム潰しである。

 まあ単純にDVD一本ということで、見やすかったからであるが。





 さてこの『F91』、一言で言ってしまえば「そこそこ面白いけど変」である。

 2時間尺とはいえ、コスモバビロニアの争乱を2時間で描ききらなければならないのだから、ある程度詰め込みすぎになるのは仕方が無いとしても、なんというか、テーマがはっきりしない。いや、結局僕の中で結論は出たのだけれど「このためにこの作品を作ったのか……」と考えると、やっぱり「変」だ。



 さてそのテーマ、ただ見ただけでは全くと言って良いほど分らない。

 「貴族主義」という題目を掲げるのコスモバビロニア。しかし物語には、実はあまり深く絡まない。

 結局のところのラスボスであるカロッゾ――鉄仮面は貴族主義という題目を背負っていないし、なによりセシリーの母のことがらや、爺さんなどは未解決なまんま終わるので、結局「貴族主義否定」というのはテーマではない。

 おそらく、新しい「敵」の形を作るためのモチーフでしかない。



 かといって「戦争批判」が入っているわけでもない。

 最初の戦闘に巻き込まれるシーン。MSの排薬莢を頭に喰らって死ぬ女性などはインパクトがつよいものの、それに対して登場人物などが特別な感情を抱いたりすることはない。あくまで彼らは危機的状況での自己の生存を優先する(いや、人間としては極めて普通の行動だけど)。そして何より主人公シーブックは、母親がF91の開発に関わっていたことを知りつつ嫌悪するも、あっさりとF91に乗って戦っていく道をえらぶ。

 そして何より「敵」である鉄仮面は「戦争」をしたいわけでない(これがテーマを解くヒントになったのだが、これは後述)。



 そして冨野氏お約束の「女性批判(批判、といういい方が正しいか微妙なのだが)」かというと、これもまた違う感じがする。セシリーが、シーブックという拠り所をなくして「ベラ・ロナ」という立場に流れ、戦場で再会することによって都合よく投降したり、アンナマリーがザビーネの情愛を得られないことを理由に連邦に寝返るなど、その要素は確かにある。それは事実である。

 だが後者は『Z』におけるレコア・ロンドなどの焼き直しであるし、前者も最初の状況などから考えていくとそれほどインパクトが強いものでなく、テーマとして持ってきているかといえば足りない感じがする。少なくとも『Z』のときほどのものではない。



 ……というわけで、具体的にこれ! というものがパッと見わかりにくいのだ。





 さて、ではF91のテーマは何であるか?

 それは恐らく鉄仮面という男が持っている「攻撃性」であり、その「仮面」そのものである。

 鉄仮面はコンプレックスから仮面を被っている。しかも、妻の愛が得られないという矮小な、だが男としては大きいコンプレックスだ。彼はそのためだけに仮面を被っているのである。



 そしてその彼のコンプレックスは執拗なまでの攻撃性に昇華している。

 彼は貴族主義を掲げたいわけではない。作中彼はそんなことをほとんど口にしない。

 だから結局コスモバビロニアを作るための戦争をしたいわけでもない。

 それらはすべて理由付けに過ぎない。



 では何がしたいか?

 ただ攻撃したいのだ。暴力を振るいたいのだ。自らのコンプレックスを晴らすために。

 だから戦略的に見ても、そして人道的に見ても明らかにおかしい「バグ」という殺戮の道具を作り出し、そして兵器としてみても明らかに不自然で、非合理的な「ラフレシア」を開発した。これはバグ――蝿をたからせる、歪んだ愛と人格を象徴した巨大な花ラフレシアと、シーブックとセシリーを結びつける、小さいが純粋な想いを象徴した花ユリの対比となっている。ここも面白い。

 鉄仮面が抱える幼稚ともいえる攻撃性は、この作品でもっとも語りたいことの一つである気がする。

 



 で、その攻撃性の説明をした上で、「仮面」の話。

 見たことのある人はピンと来るだろうが、エンディングスタッフロールラスト、ガンダムF91と鉄仮面の顔の絵が重なる。鉄仮面とガンダムを重ねる意味は果たしてどこにあるのか?



 コスモバビロニアという新しく作り出されようとしている体制のなかで、唯一己の抱えるコンプレックスだけを原動力とする仮面の男、鉄仮面。しかし、それはコンプレックスゆえ被らなくてはならなくなった仮面であり、そしてはずすことが出来なくなった仮面でもあった。



 そんな人が現実世界にもいるのだ。

 コンプレックスを原動力の一部としており、「作品」という仮面を被ることでそれを表現し、そして、いつしかはずすことが出来なくなった人が。

 ガンダムという仮面を被り、はずすことが出来なくなり、企業という体制のなかで中核にいながらも、まったく別の意思を持っている。しかし、体制のために演説をしたり、道化を演じなければならない。そんな人が。



 そう――『F91』の鉄火面は、実は冨野氏本人なのだ。

 このように考えると途端に最後のF91vsラフレシア戦、そこでの鉄仮面の台詞が深いものに思えてくる。



 「敵機は何機いるのだ!」「質量を持った分身だと!」

 鉄仮面はラフレシアの触手をもってしても、F91を、「ガンダム」を捕らえきることは出来ない。

 そして、最後は自らの放ったビームで自らを貫き、ラフレシアを崩壊させてしまう。



 ……こう考えるとこの作品は、実はターンA以上にアンチ・ガンダム的な要素を含んでいると言えるだろう。

 商業的に量産され、もう自らで捉えることが出来ない「ガンダム」。

 そして、そうなってしまったことへの自虐。破壊。

 鉄仮面がだれかれ構わず、挙句自己へすら向ける攻撃性は、そのまま冨野氏の当たり所のない衝動を具現化したものなのだ。

 ――こと、その方法としてバグ使用し民間人を虐殺の対象にしたことを考えると、ただ企業や、ガンダムの名に踊らされて、作品そのものが何を語ろうとしているかを見ようとしない我々消費者に向けられた怒りが強いように感じられて仕方がない。





 しかし、この考えが正しければ『Vガンダム』で再びガンダムの仮面を被ることにした冨野氏の心境とは一体どのようなものだろうか?

 『ターンA』ではガンダムでありながら、異形を取らせることで「ガンダム」の仮面を剥ごうとした。

 そして『ブレンパワード』『キングゲイナー』などでは、完全にガンダムの仮面を捨て去って方向を模索し始めた。

 それぞれがどのような心境で作られたものか、想像してみるとなかなか面白い。

 これだから、作品をネタに思考遊びしてみるのは止められない。



 あ、『劇場版Z』。

 これは――たとえ忌み嫌う仮面であっても、自分が過去に被っていたものに泥を塗られていい気分はするまい。

 まあ、そこで、対抗心をむき出しにして『劇場版Z』を作ってしまうあたり、冨野氏は鉄仮面のような攻撃性、あるいはその一部を未だに内包しているのは確かなようだ。