文章と、伝達するということ

 庚申塚――母校文芸誌をレビューするにあたって、
 一度思考の原点に立ち返ってみる必要があると感じた。

 すなわち「人はなぜ文章を書くのか」。
 僕は少なくとも、文章は情報伝達手段の一つであり、
 それ以上でも以下でもないと考えている。

 たとえばここで今見ていただいている文章は、
 上記の理由により、文章について僕が考えていることを、
 『伝えるため』のものであり、それ以上ではない。

 手紙・メールは文章が伝えるものという最たる例で、
 論文は、論理をまとめ、伝えるためのものであり、
 小説は、物語をまとめ、伝えるためのものであり、
 自分のために取るメモや、ノートなども、
 最終的な対象が自分であるだけで、
 やはり伝達のものだといえる。 

 強いて言えば、伝達でない文は日記くらいのものだろうか。

 ともかく、僕は文章を書く以上、そこには何かしらの
 書き手が「伝えようとする」意図が存在すると思っており、
 それをより効果的にすることが「文章の上達」であると
 考えてやまない。

 とはいえ、大学のサークルでときどき見るのは、
 なんというか、こう意図不明な文章である。
 物語も伝わってこないし、詩のように想像を掻き立てられない。
 もちろん、論文の理論性なんてものも存在しない。

 そういう文章を書いたひとに話をきいたところ、
 帰ってきた答えで多かったのはこの二つが多かった。

 「雰囲気をつくりたかった」
 「特に意図はなく、思うままに書いた」
 
 前者はまだなんとなくわかる。
 結局僕がわからない、で終わってしまっているのだから、
 意図の伝達に失敗している可能性が高い。
 ある後輩が「空気みたいな文章」という表現を使ったが、
 まさにそれで、結局想像させるに至らない、
 宙ぶらりんな文章の羅列で終わってしまっている。

 わからないのは後者で、
 少なくとも、僕の理屈の中では、
 意図もなく文章をつくることはありえないことなのだ。

 少なくともこういう文章は、読み解けない。
 書き手と逆に、読み手は文章から意味をとろうとする。
 それが、ないということなのだから読めるはずがない。

 それは未熟さで、自分の意図にすら気づけないだけ、
 というのはたやすい。
 文章を書く行為に、意図を含める以上の
 使用方法があるとしたならば、
 それは確かに興味深いとも感じるわけであるが……。


 つまり、何が言いたいのかというと、
 僕は残念ながら文章を伝達の道具としてしか見られない、
 人間であるということで、意図不明なものに関しては、
 意見を書けない可能性が高い。
 そんな予防線をはりたいのである。

 やはり、何度考えても、意図の乗っていない文章を、
 書き記す理由が浮かばない。
 思春期の青少年の奇行のように、
 意味のないことに意味があるという無難な結論しか、
 今のところ出せていない。

 ……。
 恐らくこの問題は、しばらくの間、心の隅っこに残り続ける。
 残って残って、ふとした瞬間に思い出し、
 今回のように自分の中にこびり付いている「当たり前」の、
 剥離剤となるに違いない。