ふと、思ったことをつらつらと
別に自慢する意図とかは全くないことを最初に断っておきます。
今日、というかもう昨日ですが、
初めて一部本格的にお仕事に関わらせていただいた書籍が発売されました。
仕事をする課程でなんども上司にご迷惑をおかけしたんですが、
そんな中で、制作に関しても少しお話をする機会がありました。
現代において制作することとは、コンセプトを整理し、企画をすること。
その思い描くコンセプトに基づいて、試行錯誤しながら制作物を研ぎ澄ますこと。
そして、そのコンセプトに織り込まなくてはならないものとは、
「いかに売れるものを作るか」
ということ。
小説、漫画、映像など――絵画や陶芸など、感性的芸術性の強いもの以外すべて。
自分が常々思ってきたことですが、本職の方から聞くとやはり重みが違います。
やはりその作品が多くの支持を集めているかという指標においては、お金というのは不動の単位なわけですね。資本主義社会ですから、あたりまえですか。
さて、そこで思い返して、今まで自分が書いてきた文章にそういう具体性のある「コンセプト」があり、それを実行する企画力「プロジェクト」があり、実際に制作する「スキル」があったか? といえば……ああ、なんとなくわかってはいたつもりだったけど、あくまで「気にしていた」というレベルのもので、具体的ではなかったなぁ、と思う部分が大きいわけです。
それを考えつつ、いま自分の中で文章を書くことに関して整理してます。
年が変わるころには、まとまるといいなぁと思うのですが、これがなかなか。
あ。
ちょっと話はずれますが、いつか2chのスレだったかに
「文学・文芸とかいう言葉を作り出した者は悪だ」
ということが書かれていたのを、ふと思い出してしまいます。
大学入りたての当初、先輩から「文学の崩壊」という言葉を聞いて「なんとなくしっくりこないな」と首を捻ったものですが、今ならその疑問の意味がわかる気がします。首を捻って正解だったのです。
文章の創作とは、おそらく、
「文芸」という芸術でも、
「文学」という学問でもない。
言葉を作るとしたら、「文業」。作業。お仕事。
ただ、これが繰り返されてきているのではないかなぁ、と。
確かに資本主義の要素があって大きく変容は遂げたと思うのですが、結局のところ多くの人の心をつかむために上に挙げた「コンセプト」「プロジェクト」「スキル」の3つを兼ね備えることは、ずっと昔から必要だったのではないでしょうか。じゃなきゃ現代まで残りませんもんね。
もちろん「芸」と「学」に価値がないというわけではないのですが……。
ただ、その名称のために、変な活字崇拝主義というか、そういうモノは生んだ気がします。「マンガは低俗」とかね。表現手段が違うだけで、結局は同じもんだと思うんですがね。そういう意味では悪かなぁやっぱ。
ん。
そういえば。
「あの有名な小説は、当時の○○というものが背景にあった××という人々に広く受けいれられた。そういう人々を意識した部分が△△の箇所に認められる」とかいう風な切り口で文章を研究している人ってやっぱりいるんでしょうね?
いや、なんか文学研究家って「作品の表現」や「作家と作品」の研究が多くて、「作品と当時の読者」「作者が読者を意識した部分」とかを抜き出して、メディア技法的な部分にスポットを当てている人って少ない気がして。
まあ、僕がそういう研究分野に対して無知なだけか。
うーん、いまさらながら国文学について知りたくなったなぁ。
……って、本当に思いついただけのことをダラダラ書くだけになってしまった(汗)。