生きている意味とは

 mixiつながりの後輩くんのブログでネタ拾ってきました。

 生きている意味ですかー。うーん。

 

 僕もそういえば、学生時代は「人間科学科」なんて大仰な名前のついた場所で、よく考えれば当たり前のことを当たり前と認知するための学問である「社会学」とか「心理学」の隅っこを、ネズミのようにカリカリかじったりしていたわけです。





 で、その中でやっぱり「生きている意味」についても考えました。

 



 思うに人間って、フツーに生きている間は何も考えずに生きてるわけです。が、何かの拍子で立ち止まったとき――それは思春期の合併症みたいなものだったり、ふっと自分の存在に疑問を抱いたりしたとき等々――にいろいろ考えてしまうのです。



 以前の、曽我町子さんの訃報が、僕にとってそのふっと立ち止まる一瞬だったといえるでしょう。あのとき僕は『(他者の)「死」を認識して初めて自分の「生」が見える』とか偉そうに書いたと思います。それは多分、他人(=曽我氏)の「死」が、未来における自分の「死」を間接的に認知させたからと考えられます。

 

 「あの人が死ぬ年になったんだなぁ。自分は生きているけれど、でもいつかは――」という具合に。



 それを考えると、結局「生きている意味」って、どこかの未来における自分の死を自覚したときに考えることなんんじゃないかなぁ、と僕は思います。

 思春期合併症にしても「○○が嫌だ。死にたい」とか考えたとき、そこで「生きている意味が無い」って風に言葉が変わる気がする。

 統計取ったわけじゃないから、なんともいえないですけど(そもそも統計取れるような事柄じゃないし)。



 思考シミュレーションしてみると、

 「じゃあなんで自分は死んではいないの?」

 「とりあえず殺されていないし、生きているから」

 「では、どうして生きているの?」

 「それは……」

 という感じでたどり着く先が「生きている意味ってなんだ?」ってところなんじゃじゃないかと。



 「死」は終焉ですが、「生」は始まりではない。現在進行形なのです。対比に見えて実は全く対比ではない。それが「生と死」なんですなぁ。

 まったく、自分で書いていてこんがらがってきますね。

 それにまとまってない。



 まあ、とどのつまり「死」について考えるとそれに対する「生」の理由を見出したくなるという思考的反射みたいなものが人間にはあるんじゃないかなぁ、とか思うのですが、どんなもんなんでしょうかね。



 ここまで書いておいてなんですが良く分かりません。

 教えて偉い人!





・追記

 5/29になくなられた岡田眞澄氏に深く哀悼の意を表します。

 さようなら、ファンファン大佐