ポーの一族

ポーの一族 (1)小学館萩尾 望都このアイテムの詳細を見る




 というわけで急川さんからの借り物紹介。

 ポーの一族文庫版1巻です。



 この萩尾さんの作品はほぼ初めて読んだのですが、最初に受けた印象はなんというか、不思議な印象を受けました。



 いやこれは内容についてではなく――まあ内容も不思議なんですが、バンパネラ(=ヴァンパイア)と呼ばれる種族の少年の、長い歴史の一角を区切り取ったような話が1話完結形式で連続していきます。

 長い時を生きる存在だからこそ、イベントの要点要点だけを区切って表すことでそのキャラクターの人生を表現する。しかも、1話完結形式を取ることで、時間軸が物凄い勢いで巻き戻ったり進んだりしてもなるほどと思わせる説得力がある。



 その方法は秀逸と思いながら、僕が気になったのはコマ割りでした。

 この萩尾さんという方、なんというか、本来漫画であるなら、強調するであろうシーンをあえて書かないとかいう方式を取るんです。どちらかというと、文章の行間を読ませるような感覚に似てます。

 

 以前僕は漫画とかアニメの表現形態の違いについて書こうと思って止めたことがあるんですが、そのなかで、僕が漫画という媒体について導き出した結論が一つあります。



 それは漫画の表現方法は「状況やキャラの瞬間把握性」に特化しているというものです。つまり漫画はコマで区切られた絵であることによって、読者の目をそこに固着させ、誰がいて、どんな状況かを認識させます。

 コマを読み進め、飛び石のように視点を移していくことで、新たなコマに接し、その認識図を上書きしていくのが漫画の読み方ではないか。だから、漫画という表現媒体は、小説やアニメ・ドラマよりも「一瞬で状況を把握させる表現」に特化しているのではということです。



 そしてその視点が飛ぶ先のコマが大きかったり変な形をしているほど、読み手は引き止められキャラや状況の描写を印象付けられるということになり、小さかったりしていると、読み飛ばされ易くなるという点はあるものの、何かを忍ばせたり、小細工をしている描写をすることができる、と。



 

 ただ、この『ポーの一族』はちょっと違って、淡々とストーリーを流しつつ、不意に足りないコマが出来て、間を想像しなければならないという読ませ方をしている気がしました。「具体的にどのあたりが〜」というのはもうちょっと読み込んでみないと明確なことをいえないのですが、かなり読者の中で補うものが出てくる作品であるといえる気がします。



 まあ、そんなわけで、上記のような理屈で漫画を見ていた自分としてはちょっと衝撃的した。

 漫画でもこういうことができるんだなぁ。

 もうちょっと多ジャンルの漫画を読んでみるべきだなぁ。うん。



 でも、小説ですら分り易さが求められている時代では、この技法を用いた漫画は受けないんだろうなぁ……。

 最近は漫画のその瞬間把握性が悪乗りして、いたずらにキャラとかの感情を爆発させた絵を大コマでインパクトをつけて書く人が増えてしまって、少なくともこの手の技法は主流ではない気がします。

 前書いた『ワンピース』がイマイチ心に残らない理由もそうなんですが、それが過度で、演技しているように薄っぺらくみえてしまうせいなんですがね。まあ、多分激情大コマって方法は普通なんですが、やり過ぎるともうなんというか……。



 しかし、そのカラミで思い出したんですが、そういう過度演出が成されると、冷静なキャラなのにも関わらず急に切れたり、妙に号泣するとか、なんかリアリティに欠ける人がいたりします。そういう人物なりの意志の変わり方とかあるだろ? なんで突飛で分り安すぎる感情表現に持って行くんだ? 



 「表には出さない静かな怒り」とか「些細なことによる考え方の変化」とか「お互い言葉にも表情にも出さないが、ちょっとしたしぐさで通じる意思」とか、そういうものは今は求められない時代ですかねぇ。



 まあ、演出の仕方も多分に絡んでくるんで、断定的なことはなんとも言いがたいですが。