主題を語ることと、その考察

 一昨日のメトロンに関するブログに急川さんからご指摘がありました。主題考察が少ない(あるいはない)ということ。

 確かに僕はココで作品の主題において語ることはあまりないですね。書いてもあくまで軽く流す程度。というわけで、僕の中で作品の主題とはどういうものか、ということを考えるいい機会ができました。急川さん、ありがとうございます。



 さて、考えていくうちに、僕にとっての主題=テーマの特徴が見えてきました。

 僕の、製作する側としてのテーマとは、作品を書くきっかけです。創作する方は一定の「ひらめくタイミング」があると思うんですが、それが僕の場合テーマとなるワードが浮かんだときというわけです。なんと言いますか、それは例えば作品の看板(商業的な意味でなく、作品全体の)です。何を訴えたいか、明確化しているのです。



 客観的に見る側でも、それは変わりません。結局この作品は何が言いたかったのか、何を根底において作成されたのか? ということを考えます。 多くの作品には少し考察を加えればこれが見えてきます。先日のメトロンの話を例にするのなら「40年前との対比」であり「それに伴う人の動き」であるのです。これが見えないのがいわゆる「何がいいたいのか分らない話」です。



 しかし、これ以上に主題を掘り返すということはなかなかに難しい。順当にいけば、おそらく次の疑問点は「何ゆえ製作者がこの主題を選ぶに至ったか?」でしょう。これは、作品の背後関係、作者の人脈、人間史等々をある程度把握して、モノを語らねばならないからです。

 このことそのものは有意義なことです。非常に面白いと思います。僕も、尊敬するクリエイターさんのことは是非知ってみたいと思いますし、余裕があればいろいろ調べてみたいです。





 しかし、僕は作品そのものの考察という意味では、これはやや踏み込み過ぎであるという気がしています。厳密に言えば「主題の意図を探り出す」段階で、その考察は「作品自体の考察」から若干離れたところに位置するのではないかと。

 僕にとっての主題はあくまで作品全体が「背負っている看板」です。「その主題をどのように作品に取り込んで、上手く表現しているかということ」には自分でもびっくりするほど興味と好奇心を持つのですが、その主題がなぜ主題になったのか、というところまでは気が回っていませんでした。



 これで日本文学の研究とかをしていたらまた違っていたのでしょうが……どうやら僕は製作物と製作者との間に、ある程度しきりがあると考えているようです。

 これは僕が、製作物を商業的に考えすぎているせいが多分にあると思います。製作物と製作者。この二つは例えるなら父と子なのですが、表に立つのは子だけです。例えば松下電器製品のリピーターが、松下電器の会社の構成や、歴史、主な子会社、取引先その他まで調べだすということはあまりないでしょう。受け取る側にとっては製品が存在のすべてであり、それ以上ではないのです。



 急川さんは最後に、今の若い世代が主題の考察をあまりしないのは不思議とおっしゃってますが、それは文章や映像など創作の分野で、この「商業システム化による父と子の分離」が起こって、無意識のうちに定着し始めているからではないでしょうか?





 うーん、自分でもまだまとまりきっていないですが……。

 つたない考察ですが、僕の主題に関する意見はこのような感じです。