アストロ球団終了&キャラの話

 ありゃりゃ、やはり見始めるのが遅かったか。

 水曜深夜のアストロ、終了です。



 しかし、最後はポカーン。なんで、9人そろったアストロ超人は消滅してしまったのか。

 しかも、古田選手出てきているし。うーん、いろいろ勢いだけで終わらせてしまった感じだなぁ。いや、それがアストロクオリティなのか。



 

 で、最近思ったことはやはり僕は単なるキャラ小説を書けないということ。

 どうも、キャラクターの特徴に過度に理由を付けたがるせいかもわかりません。「この性格になるには過去にこういう要因が必要で、その上で動くと、このような結果になる」という形をしっかり作りたいという癖です。

 実はこの要素を突き詰めた場合、キャラクターは極めて普通になり、なんというか突破した存在ではなくなります。なぜならキャラクターとして突破した存在であるというのは、裏を返せば「超がつくほど不自然な存在」だからです。整合性を意識した時点で、この要素とは相反するものになります。

 もちろんそのほうがコミカルですし、わかり易くはなります。

 しかし、同時に肌に会わない人には必要以上の不快感を与えてしまいます。



 僕が嫌い、というか苦手な漫画には、好きな方は申し訳ないですが「ONE PIECE」があります。

 展開とかは確かに面白い要素を含んでいますし、実際そうなのですが、キャラクターが全く感情移入できなかった。やることなすことや感情表現がいちいち極端で、なんというか人以外の何かを見ている感じがして不快だったのです。

 感情は確かにわかり易い。子どもにも受けるだろう。でも、それゆえにうそ臭さがでてしまう。僕はこれを過度の「ディフォルメ化をされたキャラクター」だと思います。



 うーん、たびたび引き合いに出しますが、平成ライダーシリーズはそれを上手くやっているんだよなぁ。まあ役者さんがやってるからって言うのもあるでしょうが(やっぱり視覚効果として、役者さんの一挙一動や表情使いに、二次元絵やアニメはかないません。一秒で出せる情報量が全然違う)。

 また、平成ライダーは「どうせ子どもはライダーとその戦闘くらいしか見ないから、ドラマを深くして大人の視聴にも耐えるようにしようぜ」が基本コンセプトなんですよね。なので、登場人物たちはいろいろな非現実的要素を含みながらも、整合性を保った「人」である。断じて「ディフォルメ化されたキャラクター」ではない……。



 僕は、ラノベや、アニメみたいなお話を書きつつ、キャラクターたちを「キャラクター」でなく「人」として立たせたいと思ってしまっているのでしょうか? いや、もちろん僕の幼稚な技術で書いているのは「ディフォルメ化された人」なんでしょうが……。



 やっぱり書くジャンルを変えたほうがいいのかなぁ……。