いろいろ思うところアリ

 ちょっと土曜日の夜議論されたのですが、とりあえず、自分なりに自分観が具体的になるいい機会でありました。



 それで確認したこと。

 それは社会科学の概念が、頭の中にくっついて回っているんだ、ということ。

 社会科学の「質的研究」の基礎的なところで、他者、あるいはその団体を自分の視点から眺めて、それを自分なりに解釈するというものが考えの根底にあるのである。



 「科学」とは、事象の分析である。

 全ての事象には、引き金となる要因がある。

 ヨウ素液を付ければ→芋のデンプンが紫色に。

 これが科学実験であり、科学的変化である。



 このように科学的見地を人間に当てはめることが、僕が楽しんでやってきた社会科学なのだ。

 例えば「なぜ人がものを食べるか」→「おなかがすくから」。ではなぜおなかがすくのか……といったように考察していくということ。

 人の行動にも、原因となる要因と、それによって引き起こされる事象が存在し、分析できるとするのが社会学の概念なのである。



 だから、つい日常生活においても、そういった視点を持ちこんでしまう。土曜日は「人に踏み込む」ということについて聞かれたのだが、ぶっちゃけて僕はそれが微妙に嫌だった。

 もちろん、他人に対して責任を負う怖さというものも強くあるのだが……。僕の考え方からすれば――他者に不用意に踏み込むことは「手に入れた成分の分らない薬を、ろくすっぽ調べもせずに飲んでしまう」行為に思えて仕方ないのである。



 ……。

 僕は他人の発言、行動、その他を分析して、その人間がどういう存在なのかを自分なりに捉える活動に価値を見出してしまっている。

 そんなわけで、僕にとって全ての他者は、親しい間柄であっても、分析をする「他人」という視点が常に付きまとっている。家族ですら例外ではない。



 それが、僕の持っている精神的な「壁」の発生源だろうとも思う。

 僕は他人という「フラスコに入った薬」を観察し、必要に応じて別の成分を投入してみたり 衝撃を与えてみたりする。が、飲んでその成分を体内へ受け入れることまではしたくないと考えているのである。

 まあ――もちろん、必要に迫られるということはあったりするのだが。



 もちろん、薬を飲むことに価値があることも認める。僕自身、できれば飲んだ経験という、自らの人体実験結果のデータも欲しいところだし、それに関してのデータ交換が他者とできるようになる。

 しかし、飲んだ薬の効果を分析して同じものを作れる薬師がいるだろうか? 薬の効果をまねるには、当たり前だが薬を分析することは避けて通れないだろう。

 どっちも出来るのが、一番いいのだろうが……。

 他人という薬は、興味本位で飲んでいいものではない。

 となると、必然と僕の中で分析の比重が高くなる。



 いささか極端でないかと思うかもしれないが、恐らくそれは僕が今、創作という場においてもそれを優先しているからである。

 「薬(注:この場合は他者というわけではなく、作品という存在である。が、他者へ影響を与える要因としての要素という意味では大差ない)」がどんな色で、どういう成分で、どういう効果を成しているのか。それが結果、どのような効用をもたらすのか。ということが大事であるし、そういう意味で作家は「効果を狙った薬を作る」仕事だと思うからだ。



 ……。

 まあだらだら書いたが、そういうわけで、僕は他人を自分なりに解釈する行為に価値を見出しすぎている。薬を飲むことの価値が、そのために薄まっている。

  

 まあ、これは悪いことだと思わないし、かといえば極端に良いことだとも思ってはいない。

 自分とはそういう存在なのだという、自分の中での一つの観点である。



 ……しかし、それをここに書くのは、いささか矛盾した、愚かな行為だなぁ。