戦争と平和ってなにさー

 本日は、親の買い物に車で付き合いました。

 最近多いです、クルマ。いやだなぁ。



 他は小説の見直し作業です。明日には予定していた皆さんにお送りできるかも。

 ただここへ来て、ちょっと設定をいじったので、いま整合性を取ってます。結構大変です。





 さて、そういえば今日は、戦争中密林にひそんだまま戦後30年にわたって終戦を知らないでいた「小野田さん」のドキュメンタリーをやっていましたね。なかなか、感じるものがありました。



 思えば、広島・長崎原爆記念日のことをこのブログはスルーしていたわけですね。



 ……というか意図的に、です。

 毎年この時期、原爆記念日終戦記念日などというくくりでドキュメンタリーや特別番組が作られ、放送されるというのが僕は気に入らないのです。

 もちろん、戦争は痛ましいものです。原爆なんて兵器は二度と使われるようなことがあってはいけません。

 僕の祖父・祖母たちも経験者ですし、そういう方たちが受けた悲劇を繋ぎとめることも必要だと思うのです。

 

 では、なぜ嫌いかといえば「安易なお涙頂戴」と「戦争はいけないという事項だけを焼き付ける」という状況が鼻につくのです。



 あえて、強い言葉を使います。

 そんなことは、ここ60年間毎年やってきたわけです。もういいでしょう。

 同じことを繰り返していて、どうするんです? ある意味、それは脳が止まっているじゃありませんか。



 もちろん、こういったものの「リフレインして戦争という傷を忘れさせない」というのは一つの立派な効果だと思います。それは重要です。しかしながら、そこからもう一歩踏み出した番組、ドキュメンタリーがこの時期に組まれて放送されるということはまずありません。





 すなわち方法論です。



 「どうして戦争は起こるの?」

 「どうやったら戦争は終わらせられるの?」

 「どうすれば戦争をしなくてすむの?」

 「どうして原子爆弾は使われたの? どうすれば回避できたの?」

 (最後のはTBSでドキュメンタリーが組まれていましたね。面白かったー)



 これの答えを考えていくということが、我々新しい世代に必要なことであると僕は考えます。

 過去の記憶は痛ましいですが……我々がするべき事は「戦争をしない&させないためにどうするか」であり、その方法を模索していくことが求められていると思っているわけです。

 もっと、そういう番組や教育方法があっていいのではないでしょうか?

 残念ながら学校における歴史の授業は、事実の詰め込みだけで、この辺りのことをしっかりやってはくれないのです。

  

 具体的な方針すらはっきりせずに「戦争はいけない、止めるべきだ」「原子爆弾は使われないべきだ」というのであれば、それは新たな争いを生みかねません。

 某ガンダム吉良上野介に似た名前の奴がやってますね。こいつの場合は、自分でがんがん暴力振るってるのでもっと凶悪ですが。

 

 以前もどこかで書きましたが、平和と書かれた垂れ幕では、鉛弾は止まりません。

 鉛弾をとめる究極の方法は「射手を殺す」ことですが、それでは戦争になります。

 じゃあ、射手をどうすれば鉛弾は止まるでしょうか。

 買収する……そもそも、撃つ武器を与えなくさせる……射手の性格や特性を調べて、どうにかできないか考えてみるetc。

 幾つか方法が考えられるはずです。

 このような思考なくして、何かをなそうというのが甚だ間違いだと思います。

 以前いた「人間の壁」などといった人々は、この典型です。

 平和に向かうという意思がありながら、方法が間違っているのです。その度胸は認めますがね。





 以下は持論です。



 平和という言葉は、魔法の呪文ではなく、ただの言葉。

 平和という言葉を唱えていれば平和になる、というのは妄想にすぎない。

 「何か」をして、目指すところにあるものがおそらく平和である。

 そして、誰かの平和は、他の誰かの非平和である可能性を常に考える必要がある。



 ……。

 さて、する「何か」とはなんでしょうか?



 いやー、偉そうなことを書いておきながら、僕も良く分かってません。

 誰か分かる人ー! さっそくですいませんが、世界を平和にしてくださいな。