「正解」の文章ってなんだ?

 考えたことありますか?



 というのも、本日OBあっきーさんに、羅族本の僕の作品を添削していただき、さらに感想をもらいました。

 意外に誤字脱字多かったー。

 七つ八つぐらいスルーしてました。恐らく一回目校正後の加筆の段階で混入したものと思われ。うーん、校正力のほうはまだまだですねー。

 漢字変換ミスとかは見落とし易いなぁ。注意しないと。



 で、そこで、文章のことについて触れたので。ここでも少し。

 

 小説を他の人に見ていただくとき、いろいろな人に多くの点を指摘してもらって、間違っているところは直し、危ない思われる部分を書き直しています。いろいろな人からアドバイスがもらえるということは、非常にありがたいことです。まして愚作のために時間を割いていただいているわけですから。



 しかし、文章表現とは難しいもので、ある程度の多数が理解できても、ある人は疑問を持ったりするということがときどきあります。

 これへのさじ加減が難しいのです。



 そもそもこれは読み手個々の文章嗜好が深く絡んでくるので、なんともいえません。 文章への美学というのは非常に個人的なものなので、ある程度文字に慣れてしまうと、その人の中に文章の理想系が出来てしまいます。そうすると、そこに合わない文章がどうしても気に入らなくなるのです。

 が、ただ嗜好の問題だけで切ってしまうにはあまりにも短絡的といえます。多くの人に読まれるには、それだけで切り捨ててはいけない気がするのです。



 しかしながら、その一人の疑問をどこまで汲んで良いのかというのもあります。あくまで、その人好みの文章にはなるのでしょうが、それで全体として良い方向に転じるのかという疑問も生まれます。



 あとは、書き手は自分の文章が問題なく一番あっていると思い込みがちなので、そういったところからくる「書き手の意地」的なものもあったり。





 というわけで、幾つかの選択肢の中「何が正解なのか?」というところを非常に迷うのです。





 一番良いのは、理解できた人とできなかった人の両者から詳しい意見をもらうのが良いのでしょうが、周りにかける迷惑が半端じゃないですからねー。

 やはり、迷ったときは、書き手の決断がモノをいうと思うのですが……どんなもんでしょうか。



 とりあえず僕は、表現について指摘されて、迷ったところのことに関して、同じ指摘が重複して別の誰かから来た場合に変更することにしています。もちろん明らかな誤字脱字、語句間違いなどは例外ですが。

 アドバイスをもらうに当たって、不謹慎極まりない言い方かも分かりませんが、正直一人からの意見というのは「参考になる、非常にありがたいアドバイス」でありながら「あくまで個々の価値観の則った意見」でもあると思うからです。

 

 まあ、そうして落ち着いた表現も、正解じゃあないかもしれないわけで。うーん。書き続ける限り、このジレンマは尽きないでしょうね。



 いやー、なんか抽象的な話ですなー。