創作の話2話目
最近あった、爆破事件。板橋区内で起こってたんですねぇ。
いまさらかよ!
といった感じですが、昨日警察署の前にものごっつい数の中継車があったんでびっくりでした。
おかげで、本返せませんでしたよ。
警察署の隣なんですよ、最寄の図書館が。
今日は校正の勉強とDTPの本を開きつつ、小説を。
といっても2000字くらいしか進みませんでしたが。
あ、小説といえば。
ちなみに文芸の会室とかから、若干反論がきたんで昨日のブログの補足。
あくまで「より多くの人に読んでもらうための私的な」見解です。読み方、そして書く動機は人それぞれでいいとは思うのですよ。
でも、書き手として、本気で多くの人に読んでもらいたいなら=プロなどになりたいのなら、僕は「より多人数に読まれることを意識し、かつ読んで楽しんでもらえるもの」を考え、提供できる存在にならなければと考えるわけです。
で、結局それだけのことができるのは物語というメディア形式ではないかと。
文体読みや、表現読みは多いよ! という方もいらっしゃいますが……これは統計とっているわけでもないですし、そんな統計資料の存在を知らないので、実のところ分かりません。
誰かそういう資料があるのであれば教えてください。非常に興味深い。
でも、想定することはできます。
実際問題として本を買い、読む人が、みんながみんな文章を文体や表現までむさぼりつくすように読みこんでいるとしたら文学研究者や文学評論家のような人間は、現在のような価値と意味をもっていないはずなのです。
存在しないか、あるいはまったく別の形をとっているでしょう(各自がどのように作品のテーマ分析をしているか、といった統計研究をする学問になってるのかなー? などと想像)。
つまりは分析をし、それを発表する人が少ないからこそ、価値が生まれる分野の人たちでしょう。
――逆を言えば、本を読む大多数は文体や文章技巧などはあまり気にしていない、あるいは気にしても感情的な好き嫌いのレベルで……ということになってしまうのではないでしょうか?
かく言う僕も、文章に懲りたいところがいくつもあるので、妥協点をいまだ見つけられずにいるのですが……。
いろいろ考え出すと切りないんでやめますか。
ま、とどのつまり。
僕がたどり着いた方向性はここですが、ブログですしそれを主張してみたまでです。
書き方、読み方を縛るつもりはないです。
ただし。
書き手が他人に作品を見せることにに関しては別です。
字数制限をしたから、とか、〜をテーマにした、などはよく聞かれますが結局面白いものでなければ意味がない。そんな作り手側の都合を、見ず知らずの読者は考慮してくれんのです。
書き手は、読み手に作品を読むための時間を使わせます。
それに見合う面白さを提供できなければ他者に見せるのは失礼。
プロだとさらに金をとるわけですから……。
僕もまだ、完璧にできているわけではないので、偉そうなことは言えませんが、この精神だけは忘れないようにしたいです。
と、ここ数日創作について熱く語っているのはネットの「ライトノベル作法研究所」というところを読んでいるからです。
ググって見てください。
あ、というかリンクフリーだそうなので、アドレスをはらせていただきますか。直リンはしませんが。
http://www.raitonoveru.jp/index.htm
ラノベ書きに限らず、小説書きなら一読の価値ありです。