押井守『立喰師列伝』

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 土曜日に急川さんたちと見てきました。



 上映館が10館程度なので「外れかも……」と思っている方、多いでしょうがいや、これはあたりですよ!

 伝説の立喰師「月見の銀二」から始まり、八人の立喰師のエピソードが淡々と語られていくだけなのですが、ところどころでギャグ要素が入っていたり、無駄と思えるほどの設定の細かさ――押井節が効いています。

 

 基本のあらすじは犬飼なる男の立喰文化に関する架空と現実が織り交ざった歴史語りで進んでいくのだけれども、とりあえず、一人一人のパーツに分けて解説していきましょうか。そのほうがわかりやすい。というのも、本作はこの8人の立喰師たちを順をおって解説する8チャプターで構成されているためです。



・月見の銀二

 「説教」によって店主を諭し、立喰――すなわち大衆食の無銭飲食を成し遂げる男。作品内ではもはや伝説のように語られている。その経歴・正体は一切不明……。

 押井氏がパンフレットでも語っているのだが、この銀二が生きた時代は、押井氏が生まれる以前の唯一の時代の人間で、押井氏的に完全に想像の上に立った人物である。そのため、銀二は完全に神聖化された存在に描かれている。

 

 しかし、作品内でその考証に際し、活動家「C96モーゼルの銀ちゃん」と同一人物である説や、そこから「銀二馬賊説」に発展するところが笑いどころ。その解説をしっかりとナレーター(山寺宏一氏)にやらせるのもなんというか……。

 

・ケツネコロッケのお銀

 美貌によって店主を篭絡させ、立喰を成功させる女立食師。こちらも妙にAKを持った革命ゲリラ説など、ミリタリズムに満ちた諸説があるらしい。

 ややこの部分はシーンとして単調だった記憶がある。が、まあいいだろう。



・哭きの犬丸

 泣き落としで立喰を試みるも、高確率で失敗してボコられる。むしろその部分が犬丸を立喰師たらせる所以であるらしいが……。

 演ずるのはプロダクションIG社長石川氏。ひたすら足蹴にされるシーンが続くが、最近のプロデュース作品『BLOOD+』のせいではないのか? とちょっと疑ってかかってしまった。

 

・冷やしタヌキの政

 押井守藤原カムイの『犬狼伝説』のエピソードより、蕎麦屋で殺された立喰師。本来は特機隊員に殺されたのが、作品内では左翼運動のからみで殺されたことになっている。このエピソードを知らないと、多分この部分は面白くないかと思うのだけれど……。



・牛丼の牛五郎

 牛丼店を集団で襲い、店のものを喰らいつくすゲリラ戦術立喰師。時代的にも安保闘争後、ベトナム戦争時代のオマージュがこの辺りから強くなる。すなわち立喰師というゲリラ・テロリズム的な構図VSチェーン展開する外食産業という構図である。牛丼屋店主が「戦争だ」という部分のイメージシーンでB52爆撃機を飛ばすのは、もう露骨。

 

ハンバーガーの哲

 ……ぶっちゃけココが一番この映画でつまらなかったところか。

 テーマも、上の牛五郎とかぶっているし。

 とはいえ、ハンバーガーをひたすら作り続けるシーンなど「ああ、これはされたら嫌だよなぁ」というもっとも印象深い部分もある。



・フランクフルトの辰

 実はフランクフルトはそんなに関係ない。

 一番関係あるのはディ○ニーランドである。この「ディ○ニー」の単語が出るだび、様々な擬音がその単語を上手くマスクしていく。しかし、中盤に映る道路標識には『ディズニー』と全開で書いてある。

 しかし、押井守村上春樹嫌いなんだろうか?



・中辛のサブ

 インド人よりインド人らしい格好をすることで、店主を混乱させて立喰を成功させるゴト師。

 常に「チュカラ」としか言わない国籍不明の男だが、ときどきぼそりと日本語で「インド人もびっくり」と呟くという。もはや何がなんだか。



 と、一通り語ってみたが、もう何がなんだかわからないでしょう。気になる人は劇場に行ってみてください。よりわからなくなります。





 しかし、またパンフレットの引用になってしまうけれども「物語は前半で終わっている」という押井氏の言葉は非常に納得した。

 正直、笑いと奇妙な設定の細かさや時代との兼ね合いによって生み出される面白さは冷やしタヌキの政までで、それ以後は、一応のテーマはあるものの、イマイチ振るわない。明日のジョーのパロディで引っ張ったり、ディズニーのギリギリ音消しをしてみたり、いかがわしい外人ネタを使ってみたりと、ネタに特化しただけのように見える。



 押井氏は物語が前半で終わっていることについて、「コレ以後の時代にどんな語るべき歴史があった?」と中辛のサブもびっくりな、辛口意見を述べている。



 立喰師たちはすべからく逸脱者であり、そのろくでもない量産食品に、そして己の成す行為――立喰に独自の価値を見出していた。立喰師は強い哲学家なのだ。

 銀二とお銀はその哲学を貫き、犬丸は貫こうとして失敗する。冷やしタヌキの政は他者の哲学――思想のために殺される。徐々に時代が移り変わって、牛五郎とハンバーガーの哲でアンチ社会的な画一性が生まれ、さらに時が流れた時間軸のフランクフルトの辰は己の立喰に自問自答し、最後の中辛のサブは思考することからの逃避にもみえる完全なネタとなる。



 自分の中にある哲学が崩れ、思想を通り過ぎてただのネタに集約されていく。

 月見そばに銀二が見出していた価値は、サブにはない。



 押井氏はそのような現代に至るまでの流れを歎いて、この作品(特に後半)作り上げたのではないか?

 と、ふとそんな気がした。





 余談だけれども、本作中で9役をこなした山寺宏一氏を改めて尊敬した。

 ああ、あと天丼屋というモチーフを使わなかったのは、この作品自体が天丼――お笑いでいうところの繰り返しギャグだからではないかなぁと深読みしてみる。



 あと、乙一氏と冲方丁氏。なんで出てるの?