燃えよ特撮魂! 第5回:仮面ライダー響鬼「散華する斬鬼」
ついに、斬鬼が死んだ。
最近はこのよう死と苦悩を描くストーリー展開を「鬱展開」と呼び、切って捨ててしまう人々が一部見られるが、正直それはその単語による思考停止であると強く思う。
死とは物語の中におけるその人物の終焉であり、一つの重要な幕なのだ。以前このブログで語った「意味のある死」。これを与えられたキャラクターは幸せであるし、その死に至るストーリーには必ず何か訴えかけてくるものがあるはずである。
思えば29話でプロデューサーと脚本交代があって『響鬼』は変容した。
『恋する鰹』などの話は、あきらかに白倉氏と井上氏が振るった大ナタである。あえて作品をぶっ壊してみせることにより、「ここからは別物として」ということをきっぱりと主張したのだ(白倉氏のブログでも同じようなことが述べられている)。
この大ナタが通り過ぎたあと、もっとも設定的な変容(追加、か)があったのが斬鬼だった。
あくまで膝であった負傷を胸のものとし、死に至るものにしたのだ。「膝に爆弾」というのはスポーツマンや格闘家の怪我っぽい。おそらく、到来のままでは「腕を挙げていくちょっと抜けた弟子と、それを暖かく見守るロートル」という構図のまま進むところだっただろう。
しかし、朱鬼の事件――大ナタのあとの一発目、をきっかけに、それは変わった。
斬鬼の過去。「鬼」というもの。
その過程で思いにずれが生じ始める轟鬼と斬鬼。師匠と弟子のジレンマ。
その斬鬼に与えられた全ての条件が、この回で消化されたといっていいだろう。
師匠に依存する轟鬼。それを憂いながらも、自身も弟子に依存する斬鬼。
斬鬼は死してなおそのわだかまりを捨てられず、反魂の法で蘇り、轟鬼のために心を砕く。
しかし「そのせいで死ねなかった」斬鬼を知った轟鬼は、自らを奮い立たせ、ついに師匠離れを決意する……。
戦う二人。
最後がギターを鳴らし、音撃をするシーン。
そして轟鬼の儀式である「清め」を二人で行うシーン。と続く。
いささか轟鬼の怪我を感じさせない戦い方は鼻についたが、それでもなお、二人の共闘は良かった。
斬鬼が轟鬼をフォローする戦い方ではなく、お互い背中を預けて戦う。これが轟鬼自立の証であり、真の意味で一人前の鬼となったことを証明していた。
そして、轟鬼の決意を見守った斬鬼は――消滅する。
しかし、あえてこの時期に斬鬼を退場させたのは黒い意図が見える。
そう冬コミ前なのだ。
『響鬼』ブースの多くは轟鬼×斬鬼(あるいは逆)の801ということで、それへのアンチテーゼが含まれている気がしてならない。前回における「尻マルダシ事件」も、その一環と考えれば納得がいく(苦笑)。
腐女子という生き物に知り合いはいないのだが、友情もなんでもネタにして愛にしてしまうという……。まあ、そんなことをされて本来描きたいものをスルーされてしまうというのは、クリエイターにとっては屈辱の極みであるだろう。井上氏が憤っても、不思議はない。
いや、まあそう解釈しなくても、この年最後の放送で退場させたことには区切りとして大きな意味があるだろう。「あるいは来年の話」にすると「鬼が笑う」のかもしれないが。
……最後に。
『仮面ライダーTHE FIRST』を見たとき急川氏に「井上氏は演出の感性がレトロである」という話を聞いた。この作品では「ほつれたマフラーの赤い糸を恋愛の赤い糸とかぶせる」などといった少々青臭いことをやっているのである。
今回も、それはみられた。斬鬼の命を「木についた枯葉の、最後の一枚」に当てはめ、彼が散ると同時に散らせたことだ。ご存知の通り、非常に使い古されたものである。
とはいえ、今回はこの映像的比喩は生きたと思う。「薄明美少女のたわごと」程度のイメージしかないこの「最後の一枚の葉」は、今回の全てを含んだ、最適かつ最高の「見立て」であった。
――寒空の下にしっかりと根を張った幹から、不要な枯葉は離れて、誰も知らないどこかへと飛んでいったのだ。
さようなら、斬鬼!