マスターはできない身体になったかも

 というわけで、久しぶりにTRPGの話。
 メディア考察というよりは、自分のメディア観考察かな。
 
 というのも本日先輩Dさんが、僕の以前書いた小説を元ネタにTRPGをやってくださったことがきっかけ。でプレイ後の食事の席で「是非F.E.A.R.ゲーのマスターをして欲しい」といわれたんですが……。

 あ、無理かなぁ、と(汗)。

 思い返してみると、F.E.A.R.ゲーに限らずGMをやるときはネタを飛び石のように置いてPLさんに隙間を生めながら進んでもらうというシナリオの創り方をしていた気がします。 やっぱり、ネタだけでできるから楽ということが大きいですねぇ。もちろんこれは手を抜くというわけではなく、ある程度のものを放れば勝手にみなさんが話を広げてくれるので、あとはそれを制御しなければならないのですけれど。

 やはり大きいのは、シナリオで作りたいシーンを考えるた場合、すぐに「そこへ行き着くまでにはどういう手順を踏無必要があるか」という段取りを考え始めてしまうことです。そうすると別のシーンが出来て……こういうキャラクターがいて……と考えて小説一本分の素材が頭の中で構築されてしまうのです。

 例えば「感動的且つ悲劇的な別れ」が描きたいシーンとしてあったとします。
 そこに行き着くまでを遡ると「別れる直前」のシーン、「別れの要員が発生」するシーン、「幸せなひと時」のシーン、「おっかなびっくり付き合い始める」シーン、「告白」のシーン、「お互いの距離をはかる」シーン、そして一番最初の「偶然の出会い」のシーンと、単純な一例ですがまで戻れます。

 このように一種の『物語の階段』をつくることで、最後のシーンはより効果的になります。
 例えば手を繋ぐ以前の段階で、告白したりキスするのは不自然でしょう?
 もっといえば付き合っていないのに、別れることは不自然を通り越して不可能です。
 この『階段』なくして物語は成り立たないのです。

 とまあ、ここまで考えてしまうわけですよ。
 そうすると、こういっては何ですが――その素材を1発で終わってしまうTRPGシナリオで料理してしまうのがもったいなくなってしまうのです。シナリオ素材を小出しにしていくというのも手段として考えたのですが、やはりまとめて作ったほうが効果が十分発揮されるに決まっているし、いかんせん小説を組めるレベルまでの素材になると、それでやり通したいというエゴが出てくる(おかげで失敗したシナリオも多数あります(汗))。

 そうすると、キャラも、場面構成も、カメラの位置(シーンで主点となるキャラの視点)も自分で決められ、魅せたい部分・狙った効果を確実に反映できる小説のほうでやりたくなるんです。自分も自身に絶対の自信があるわけではありませんけど、PLさんというよい意味でも悪い意味でも不安定な要素を入れるよりも、可能な限り意図通りに動作する媒体を使いたい、というのが本音です。

 困ったことに最近シナリオを考えると、ネタかでっかいのしか出てこないんですよ。
 マスター感が鈍ったというのは確実にありますが、現在の職場がスタンドアローンであることが大きいからかなぁ。あと、他人に任せて痛い目をみると、自分が不本意であることもさることながら、その人にも迷惑がかかるので、全部自分が背負ったほうが気分的に楽というのも――あ、もう病気のレベルだなこりゃ。

 うーん、リハビリもしたいところですが、出てくるのは小説のネタばかり。
 無駄に筋と整合性を考えてしまう神経質さと、出し惜しみの貧乏性と、本質的なところで他人に対して疑心暗鬼になっている自分の根本的な性質を改善をしない限りは、しばらくTRPGゲームマスターはたぶん無理。しかもゲームマスターするよりは小説のモチベーションを維持したい時期なので……治療は絶望的だなぁ。荒療治で一回やってみるのも手かなぁ……うーん。

 ともかく、しばらくはPLだと思います。
 ご迷惑をおかけします。


>Dさんへ私信
 シナリオは面白かったですよ。
 新しい切り口を見せていただけました。そういう意味でもよかったです。
 どもでしたー。